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薬草園歳時記(25)梅 2023年2月


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 梅の学名は江戸時代の日本語の発音を由来とする "Prunus mume" である。江戸時代に長崎の出島に来ていたシーボルトによって付けられた。シーボルトはドイツ人医師であり、日本を愛する博物学者であったため、学名を名付けた日本の植物は他にもある。当時の日本では梅を「ムメ」とよんでいたため、シーボルトが、そのまま学名にとり入れた。英語では "Japanese apricot"(日本の杏)と呼ばれている。ただし、梅の花は英語でplumと呼ばれることが多い。梅干し(pickled plum)の場合も「plum」という。

薬草園の実梅の花(左)とウメの名札(右)

 梅はバラ科のサクラ属(Prunus)の一種で原産地は中国である。一説には日本への渡来は弥生時代(紀元前3世紀-紀元3世紀)に朝鮮半島を経て入ったとされている。他に、遣唐使が日本に持ち込んだという考えもある。奈良時代に中国から日本に渡来した説では薬木として紹介されたと考えられている。奈良時代から庭木として親しまれており、果実の栽培も江戸時代から行われていた。観賞用を「花梅」、食用にする果実を採る梅を「実梅」とよび区別する。

薬草園の杏の果実(左)とアンズの名札(右)

 サクラ属(Prunus)は交雑種が起こり易く、梅には多くの品種がある。近縁の杏(アンズ)や李(スモモ)などと複雑に交雑している。花梅については園芸品種や植物学的に幾つか分類が存在する。園芸品種は簡易的に野梅系、緋梅(紅梅)系、豊後系に大きく3系統に分類される。

薬草園の李の花(左)とスモモの名札(右)

県立大学の梅の花(2023-2-21撮影)

 12~3月頃に5枚の花弁のある1~3cmほどの花が、葉に先立って咲く。開花時期は品種によって違いがある。前年枝の葉腋に、1-3個の花が付き、花色は白、淡紅、紅色などで、花柄は短い。梅の開花時期は本州の太平洋岸地域を基準として、次の通りに分けられる。
極早咲き:12~1月
早咲き :1~2月
遅咲き :2~3月
極遅咲き:3月
 果樹用品種を含めると梅の品種は300~500種類といわれる。花梅の「野梅系」は原種に近く、園芸品種は系統を基に「性」に細分化すると、「野梅性」「紅筆性」「難波性」「青軸性」に分類される。また、「緋梅系」(紅梅)の園芸品種は「紅梅性」「緋梅性」「唐梅性」に分類され、古枝の髄が紅色で、葉柄が濃い紅色になる。他には杏との交雑種の「豊後系」があり、これらは遅咲きなのが特徴である。系統によらずに寒の入から立春に咲く早咲きの梅を総称して「寒梅」といい、「寒紅梅」「八重寒紅」などの極早咲き品種がある。

緋梅系(左)と野梅系(右)の枝 

緋梅系(紅梅)の花


 梅の花は古来、詩に詠まれてきた。万葉の人びとが愛したのも梅だった。万葉集には梅の歌が120首ある。花を詠んだ歌としては萩についで多い。桜の歌は40首ほどである。梅が春の訪れを真っ先に知らせる花だったからであろう。また梅の花の香りもあるだろうか。日本人は古代より香りに敏感な民族である。梅の120首の歌のうち、30首あまりが、巻五の中で梅花の歌三十二首として収められている。これは天平2年の正月、大宰府の大伴旅人の邸宅で開かれた新年の宴に出席した32人の客が詠んだものであるが、その中でも次の歌が知られている。

春さればまづ咲くやどの梅の花独り見つつや春日暮らさむ(818) 山上憶良

薬草園の花梅(左)と紅色の花梅(右)

 俳句では花というと晩春の桜の花の季語である。奈良時代から平安時代初期までは、花といえば桜より梅を意味していた。平安時代初期のある事件をきっかけに、花の主役は梅から桜へと変化した。「花見=サクラ」となった起源は、812年に嵯峨天皇(786?842年)が京都の神泉苑で桜の花を観賞した「花宴の節」といわれている。それまで平安貴族にとっての花見は梅であった。嵯峨天皇が桜の花を愛でるようになったきっかけは、地主神社(じしゅじんじゃ、京都市東山区清水)で目にした桜だったという。

地主神社の地主桜(地主神社HPより)
https://www.jishujinja.or.jp/gyouji/sakura/

境内に咲く花の美しさに、牛車を二度、三度と引き返させて眺めたと伝えられる。地主神社の桜は「御車返しの桜」と呼ばれるようになった。この地主神社行幸の前年の810年、「平城太上天皇(へいぜいだいじょうてんのう)の変」が起こり、実の兄との争いで人命が奪われる事態に心を痛めた嵯峨天皇が、桜の花を観賞する宴を催すことで、都の平安や心の平穏への願いを託したと考えられている。

梅干しの種の中にある「天神様」
(小さい白い部分(仁))

 梅干の種の中心部分(仁)を「天神様」と呼ぶ。江戸時代の半ば、「梅をくふとも種食ふな 中に天神寝てござる」という歌が庶民に語られた。梅の種は食べ過ぎるとお腹によくないと考えられていて、食べないようにこの歌をつくったのかもしれない。これにはさまざまないい伝えが背景にある。菅原道真が勉学に励んだ自宅の庭にはたくさんの梅が植えられていた。道真は200年間ほどの間に65人しか合格しなかった「方略試」(平安時代初期から室町時代まで行われた最高位の官吏登用のための試験)に26歳で合格した。時の宇多天皇(867~931)の厚い信任を得て栄達を続け、899年には右大臣にまで昇進した。当時絶大な権勢を振るった藤原氏にとっては、天皇に重用され政治に口出しする道真は目障りな存在であり、道真は九州の大宰府に左遷された。道真57歳であった。その際に自宅の梅の木に哀別の思いを詠んだ歌がある。

こちふかばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春をわするな  菅原道真

太宰府天満宮の「飛梅」

 59歳で道真は大宰府で死去した。道真の死後、都では時平が急死、藤原一族に不幸が相次ぎ、暴風雨や大彗星の出現、御所への落雷で死者が出るなどの現象が続出し、「これらはた道真の怨霊による祟り」と人々は恐れた。朝廷は道真の霊を慰め災厄を免れるため、彼を天満天神として祀ることとした。各地の天満宮には梅が植えられた。道真の学才から天神様は文学や学問の神としても信仰されるようになった。

 梅を愛した道真の思いは、「飛梅伝説」を生んだ。道真が自邸の梅に別れの歌を詠み、左遷先の大宰府に向かうと、梅がその後を慕って、一夜のうちに大宰府まで飛んできたという言い伝えを生んだ。現在、太宰府天満宮には御神木として、この「飛梅」が祀られている。
 歳時記では「梅」は初春、植物の季語である。傍題には、好文木、花の兄、春告草、匂草、風待草、初名草、野梅、梅が香、梅暦、梅の宿、梅の里がある。また、梅に関連する季語には、紅梅、冬の梅、青梅もある。

梅が香にのつと日の出る山路哉     芭蕉
梅が香や活断層の上盤に        和夫

薬草園の素心蠟梅の花(左)と洞慶院(静岡市)の素心蠟梅の花(右)

 蝋梅(ロウバイ)という植物があるが、梅という字があってもロウバイ科ロウバイ属の落葉低木で、蝋梅と梅とはまったく異なる植物である。蝋梅は中国原産で、寒い季節に淡いクリーム色の花を咲かせる。蝋梅の花は香りが良く、梅の香りに近いとされている。花びらには厚みがあり、花の後から出てくる葉は楕円形である。花の質感が蝋でコーティングしたようであるところから「蝋梅」の名が付けられた。別の説では、花の咲く時期が臘月(ろうげつ)と呼ばれる太陰暦12月の頃だからという。

 蠟梅は花の少ない年の暮れから早春の頃、百花に先駆けて咲く事から、昔から庭木として人気がある。非常に強健で土壌を選ばなく、半日陰でも花を咲かせる。蠟梅の類似植物に素心蠟梅(ソシンロウバイ)があるが、花の中心部(花被の内片)が暗紫色にならないのが大きな特徴で、香りが強い。また、繫殖は実生で行われ、交雑することがあり、種を特定する正確な判断が難しい。

 薬用には開花前の蕾を使う。蕾を乾燥したものが蠟梅花(ロウバイカ)という生薬になる。咳や解熱に良いとされる。葉や種子にはアルカロイドが含まれるため、注意が必要である。

ソシンロウバイの果実(左)と薬草園のソシンロウバイの名札(右)


 梅の果実は、直系2cmから3cmのほぼ球形の核果で、果実の片側に浅い溝がある。旬の時期は6月ごろで黄色く熟す。七十二候の「芒種?末候」に「梅子黄(うめのみきばむ)」(梅の実が黄ばんで熟す)とある。特定の地域で栽培される品種が多く、全国どこでも入手できるものは比較的少ない。品種によって花粉が無かったり、自家受粉しなかったり、いろいろである。受粉が必要な梅では開花時期が重なるように授粉用の品種が必要である。

薬草園の実梅の花(左)(2023-2-21撮影)と果実(右)

 青梅の果実を燻製にした生薬を烏梅(ウバイ)と称して、疲労回復などに用いる。烏梅(ウバイ)の真っ黒な様を烏(カラス)に例えて名付けられた。民間療法では、梅干し一つ二つ、黒くなるまで焼き、熱いうちに茶碗に入れて熱湯を注ぎ、その湯を飲むと風邪に良いとされる。

 未熟果に青酸を含むため、生で食べると中毒を起こす。未熟果に多く含まれるが、果実が熟すと青酸は次第に少なくなる。梅以外にも杏、桃、枇杷などのバラ科の果物などに含まれる。アーモンド臭をもち、甘酸っぱい匂いがする。他に、梅の果実にはクエン酸、リンゴ酸、酒石酸などの有機酸が含まれている。これらの成分に健胃整腸や疲労回復の効果があるため、梅肉エキス、梅干し、梅酒に入っている梅の実は健康保持に役に立っている。

 可食部である果肉部分(中果皮)は、子房の壁が膨らんだもので、構成する細胞の遺伝子は母となる雌由来である。中にある種子は、半分は花粉由来なので、種子から発芽した株は母株と同じ性質になるとは限らない。しかし、果肉については母由来のため、雄親である花粉が異なっていても、同じものができる。

 梅の字が入る言葉に「梅雨」があるが、なぜ「梅の雨」と書くのだろうか。梅雨は、6月~7月中旬、中国の長江下流域から朝鮮半島、北海道を除く日本列島に見られる雨期のことである。強くない雨が長期に亘って続く。中国では「梅雨(メイユー)」、韓国では「長霖(チャンマ)」と呼ぶ。「梅雨」は東アジア特有の雨期であり「梅」も東アジアにしか生息しない植物である。語源にはいくつかの説がある。「梅の実が熟す頃に降る雨」という意味で、長江流域では「梅雨(ばいう)」と呼んでいたという説、「黴が生えやすい時期の雨」という意味で、「黴雨(ばいう)」と呼んだが、黴は語感が良くないので同音の梅の字を使ったという説などがある。「梅雨」という言葉は江戸時代に日本へ伝わったが、それ以前は「五月雨(さみだれ)」といった。「さ」は陰暦の5月、「みだれ」は「水垂れ」を意味する。


 静岡県には次のような梅の名所がある。
伊豆エリア:熱海梅園(熱海市)、修善寺梅林(伊豆市)、伊豆月ヶ瀬梅林(伊豆市)
富士エリア:岩本山公園(富士市)
中部エリア:洞慶院(静岡市)、久能梅林(静岡市)、蓮華寺池公園(藤枝市)
西部エリア:龍尾神社(掛川市)、豊岡梅園(磐田市)、大草山昇竜しだれ梅園(浜松市)

 これらの中で、久能梅林は駿河湾沿いを走る久能街道(国道150号線)から、久能山東照宮へ続く山下の石鳥居を潜り、1159段の石段で知られる参道を50mほど登った左手に位置している。約3000㎡の敷地に、白梅を中心とした約10種類、130本の梅が植栽されている。梅林の中腹には四阿(あずまや)が設けられ、駿河湾や伊豆半島を望む。例年の見頃は、2月中旬から3月上旬である。

 洞慶院は藁科川沿いに走る藁科街道(国道362号線)から、藁科川の支流である久住谷川上流へ向かった先にある寺である。曹洞宗の開祖、道元禅師が梅の花を好んだことに因んでいる。約400本の梅を住職が育てた。例年の見頃は2月から3月上旬である。

 修善寺梅林は、伊豆箱根鉄道駿豆線修善寺駅からバスで15分、修善寺温泉の北側の修善寺自然公園の一角にある。約3haの園内に樹齢100年を超える古木から若木まで約20品種、1000本の梅がある。高台から梅超しの富士山を望むことができる。

 岩本山公園は富士市西部を流れる富士川の近くで東名と新東名高速道路の間、標高193mの岩本山山頂にある。山麓の富士市の町並、周囲の山々、南アルプス、駿河湾まで雄大な眺望で、富士山の絶景スポットとしても知られている。約14haの公園に400本ほどの梅があり、梅と富士山の景色がいい。例年の見頃は2月上旬から3月上旬である。

岩本山公園(富士市)の梅の花

 豊岡梅園は磐田市北部、天竜浜名湖線豊岡駅から徒歩10分ほどで、約13haの斜面に、「南高」、「古城」、「改良内田」など白梅を中心とした梅樹約3000本が植えられている。元は梅酒用の梅を生産する目的であったが、来園者が増えて開花時期に公開するようになった。例年の見頃は2月中旬から3月上旬である。

 大草山昇竜しだれ梅園は、浜松市のかんざんじ温泉の近くで、浜名湖を望む大草山にある。竜が雲を掴み天に昇るように仕立てられた「昇竜しだれ梅」がある。4000㎡ほどの敷地に約10種類、350本が植えられている。しだれ梅のトンネルが美しい。例年の見頃は2月中旬から3月中旬である。

 梅の他にも、菜の花や水仙など、さまざまな早春に咲く花がある。伊豆半島は気温が高いために早く咲くものも多い。例えば、伊豆半島の南端、南伊豆町では、春の訪れが早く1月下旬には菜の花が開花を始める。見頃を迎える2、3月には河津桜も開花し、黄色の菜の花とピンクの早咲き桜の見事な競演が見られる。例年「みなみの桜と菜の花まつり」も開催され多くの観光客で賑わう。「第25回みなみの桜と菜の花まつり」は2023年2月1日(水)から3月10日(金)の日程で開催されている。

梅見酒をんなも酔うてしまひけり    大石悦子
探梅や逆さまに地図持ちかへて     尾池和夫

 最後に、沼津市の大中寺の梅園を紹介したい。前回のブログでは大中寺芋のことを書いたが、その畑の地質を確認するために2023年2月21日に現地を訪ねた。その時、大中寺の庭の梅が満開でいい香りを辺り一面に漂わせていた。

大中寺の花梅

 大中寺は沼津にある古刹で、4000坪の庭には数百株の梅がある。大正天皇をはじめとする皇室の方々もたびたび訪れた。かつて大中寺が主催した2002年の「第4回駿河梅花文学賞」を受賞した名取里美さんは、「この『駿河梅花文学賞』は、大中寺の住職下山光悦氏と眞鍋呉夫氏、那珂太郎氏、加島祥造氏、三好豊一郎氏、みなさまの企画と伺っています。
その年に出版された詩?短歌?俳句の刊行物から選者合議推薦により梅花文学大賞として『駿河梅花文学賞』 の一冊が選ばれます。さらに英語HAIKU、短詩型文学の子供部門もあり、公募による『梅花文学賞』の審査も行われ、
授賞式には、大勢の受賞者が大中寺に参集。子供も大人も受賞者がその受賞作品を朗読披露しました。格調高い大中寺の本堂の中で、選者も参加者も各人の詩の世界に浸り、ほのぼのと堪能しました」と書いておられる。受賞句集は『あかり』(角川書店)である。

手袋をはづして拾ふ梅の花    名取里美

 大中寺には次の句碑もある。

万緑の緑とりどりに緑なる    那珂太郎

 那珂太郎は、晩年の10年余、眞鍋呉夫らと歌仙を巻くために大中寺を訪れた。韻を連ねた句で、1941年(19歳、東京帝大入学)の作だという。

 今回も、薬草園の山本羊一氏に貴重な助言と写真の提供をお願いした。

尾池和夫


●参考ウェブサイト

沼津市の大中寺
http://www4.tokai.or.jp/baika/index.html

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